コラム VOL.4

硬式野球部の夢と挑戦

創部3年で甲子園へ

北海道深川市で活動するクラーク硬式野球部。
寮生活を通し、選手として、人間として大きく育つ姿に追った。



ゼロからつくりあげたチーム

「3年で甲子園に連れていきます」

部員ゼロ、グラウンドすらない野球部を任されることになった佐々木監督は、13年、大橋博理事長とこんな“約束”を交わしていた。

駒澤大学付属岩見沢高校野球部を監督、部長として35年間率い、春夏通算12回も甲子園へ導いた名将に、大橋理事長はこう語りかけたという。

「全国に1万人以上いるクラークの生徒たちに夢と希望を与えてほしい。本気で甲子園を目指してくれないか」

佐々木監督は駒大岩見沢の閉校を見届けた14年春、クラークのユニフォームに袖を通した。3年で甲子園という目標に根拠があったわけではない、と振り返る。

「甲子園には何度も行っているし、岩見沢では5年で行ったから3年と言ったけど、ゼロからチームをつくっていくんだからね。夢のまた夢の話だったよ」

4月に集まった部員は3年生1人、1年生8人のわずか9人。達也さんが全国からかき集めた。

中学時代に実績を上げたスター選手は一人もいなかった。過去に挫折を経験した選手もいた。監督が目指したのは常勝・駒大岩見沢の代名詞だった「ヒグマ打線」。食事と筋肉トレーニングで体をつくり、1.5キロもある鉄のバットを毎日振り続けた。

しかし冬を越え、2年目の秋を迎えても、期待していた結果は出なかった。甲子園はおろか、北海道の10地区が争う全道大会に進むこともかなわなかった。

3年目の春、成果が見え始めた。初めて支部予選を突破し、全道大会に駒を進めた。惜しくも初戦突破はならなかったが、相手を上回る8本ものヒットを放ち、存在感を見せつけた。

迎えた夏。初めて出場した北北海道大会を順調に勝ち上がっていく。『大逆転甲子園~クラーク記念国際高等学校ナインと2年4か月の軌跡~』の著者、中島洋尚さんが振り返る。

「初戦からの4試合でだんだん強くなっていきました。力強さが一戦一戦増していって、決勝は負ける気がしませんでした。3年かけて監督が打撃をたたき込み、達也部長はベンチのなかからわざと作戦を大声で言って選手たちに野球を一つひとつ覚えさせていった。そうした指導に選手たちが愚直にこたえた結果、気がついたときには、甲子園出場に必要な力がついていたということだと思います。さまざまな事情を抱えた選手たちが、スポーツエリートの集まる強豪校をなぎ倒し、目標を達成するようなドラマは、あらゆる取材経験のなかでも見たことがありませんでした」

決勝を制し、約束どおり、3年で甲子園出場を果たした。



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